津田健次郎の大学・高校・中学の学歴情報!ジリ貧だった学生時代

学歴

この記事は津田健次郎さんの学歴情報(中学・高等学校・大学)と学生時代のエピソードを紹介しています。

インドネシアで幼少期を過ごし、中・高と関西の名門私学を経て、東京の大学で演劇を学んだ津田健次郎さん。

声優・俳優としていまや円熟期を迎えた津田健次郎さんの学生時代はド貧乏だった?

さっそく見て行きましょう。

 

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津田健次郎の大学

津田健次郎さんは1990年4月に明治大学に入学。
途中、休学をはさんで1997年に卒業しています。

学校名 明治大学
学部・学科 文学部文学科演劇学専攻
偏差値 60
所在地
〒101-8301
東京都千代田区神田駿河台1丁目1

映画監督をめざしていた津田健次郎さん。

大阪の高等学校を卒業すると、上京し映画専攻の科がある明治大学で演劇学を学びはじめます。

1980年代後半、まだ映画専攻科のある大学は珍しいころでした。

映画専攻科ではどんなことを学ぶのでしょうか?

海外ならギリシャ悲劇やシェイクスピア、日本演劇史だと歌舞伎・能・狂言・新劇など。

津田健次郎さんの通った明治大学では専門的な選択授業もあり、バレエやスペインの演劇などもカリキュラムに用意されていたそうです。

1年生の夏休みには、バックパックを背負ってエジプトに貧乏旅行しています。

その経験が生きたのかその20年後にはこんな役も。

映画を本格的に学び始め、撮りたい気持ちは日に日に高まっていきましたが、では何を撮ればいいのか具体的にはわかっていなかったそう。

授業でも日本の小劇場演劇などは教えてもらえず、当時の津田健次郎さんにとっては大学生活はつまらなく感じられたようです。

お金もないのに友達とのんだくれる日々の中、映画だけは片っ端から見まくっていたとか。

台本が書けない、書けないから撮れない負のサイクルに落ち込んだ津田健次郎さんに転機がおとずれます。

大学3年の時に『演劇集団・円』の演劇研究所に合格、稽古に熱中する日々が始まりました。

『演劇集団・円』は橋爪功さん(現 円代表)、豊川悦司さん、石田純一さんなどを輩出しており、俳優の育成にも力を入れています。

「人と合わないというネガティブな衝動を抱えて生きていました。それゆえに、自分の本当の感性を表に出せなかった。でも、演劇の中で人の言葉、役の言葉を借りれば、いくらでも自分の持つネガティブな衝動や感性も表に出せたんです」
引用:https://www.asahi.com/and/article/20191031/6811742/

舞台の上ではウソをつくな。

円での訓練で津田健次郎さんはそう叩き込まれたそうです。

日頃の生活で自分をすべてさらけ出してばかりでは周りの人から浮いてしまいますよね。

でも逆にステージ上では、感じたままをフルに表現してもいい。

しかもやればやるほど褒められたことが、津田健次郎さんには面白くて仕方がなかったようです。

養成所には2年間在籍し、その間大学は休学しています。

最終的には正式な円の会員(劇団員)にはなれませんでしたが、研究生として過ごしたこの2年間が表現者・津田健次郎の基礎を形作ったことは間違いなく、貴重な時間だったとご本人も語っています。

引用:https://seigura.com/senior/2775/

在学中に役者としてデビューはしていますが、まったく注目されることもなくパンひとつ買うにも悩むほどの極貧生活を送っていました。

ローソクの明かりで台本を読んだこともあったとか。

舞台系の事務所に所属してカツカツの生活を続けていた津田健次郎さんでしたが、1995年、声のオーディションを受けてみないかと言われ、「ぜひやらせてください!」と挑んだのがあだち充さん原作のアニメ『H2』でした。

24歳で野田敦役の声優としてデビュー。
その後、1997年に休学期間をはさんで7年在籍した大学を卒業したのでした。

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津田健次郎の高校

津田健次郎さんは1987年4月に大阪明星高等学校に入学。1990年3月に同校を卒業しています。

学校名 大阪明星高等学校
学科・コース 普通科
偏差値 65~71
所在地
〒543-0016
大阪府大阪市天王寺区餌差町5−44

1898年開校の歴史あるカトリック系ミッションスクール、大阪明星(めいせい)高等学校。

2023年度の偏差値は65~71と合格難易度はかなり高く、野球部・水泳部・弁論部などは常に全国大会でも好成績を残す名門校です。

1987年にこの明星高等学校に進学した津田健次郎さん。

付属中学からの内部進学でした。

2年生の時には“目立ちたくて”生徒会長をつとめたこともあったそう。

1987年当時、バブルの影響もあり津田健次郎さんの周りにも続々とミニシアターが登場し始めていました。

「学生時代、ずっと空虚な感覚があって。友達が好きな作品、世の中で流行っている作品がいいと思えなかったんです。周りに馴染(なじ)めれば楽しいだろうという感覚はあった。だから、馴染もうとして流行りものに触れはするけど、全く受け入れられない(笑)」
引用:https://www.asahi.com/and/article/20191031/6811742/

周りの友人たちとは違う価値観に触れたい、という気持ちからミニシアター系の映画にはまっていった高校時代の津田健次郎さん。

その頃大阪にアート系のミニシアターはまだ一軒しかなかったそうですが、

アメリカやヨーロッパの抽象的なアート作品に惹きつけられていきます。

ハリウッド映画の対極に位置する万人受けしない前衛映画。

セリフも少なく淡々とした作品たちにどうしようもなく惹かれていったといいます。

時はバンドブームの真っ最中でもありました。

楽しそうにバンドをやっている友人たちを見て高校時代の津田健次郎さんもそんな音楽を聴いてみる。
でも全然ノレなかったそうです。

「俺の好きなのはボブディランだ。。。」

自分の感性がまったく周囲と合わないことに気づいてしまったのです。

「まわりと違っていてもいい」
それがわかっていても、孤独感を感じるのは思春期の高校生にとっては当たり前で、そしてつらい事でもあったでしょうね。

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津田健次郎の中学校

津田健次郎さんは1984年4月に大阪明星中学校に入学。1987年3月に同校を卒業しています。

学校名 大阪明星中学校
偏差値 41~51
所在地 〒543-0016
大阪府大阪市天王寺区餌差町5−44

幼い頃、父親の仕事の都合でインドネシアの首都、ジャカルタに住んでいた津田健次郎さん。

8歳で日本に帰国するまで、一番のたのしみは映画でした。

王道のハリウッド映画や、日本の戦隊ヒーロー映画などを好んで観ていたといいます。

日本に帰国してからも映画館には足繫く通っていました。

大阪・心斎橋にある映画館で古い洋画をひとりでよく観ていたという中学時代の津田健次郎さん。

実は叔父さんが映画館の株主優待券を持っていて映画を安く観れたのだそう。

オードリー・ヘップバーン、チャップリン、ジェームス・ディーンにひとり心おどらせていました。

でも、『ビバリーヒルズコップ2』・『危険な情事』などハリウッド映画が勢いの良かった1987年当時、そんな古い映画に喜んでつきあってくれる友人はいなかったそうです。

中学時代から映画作りに惹かれる自覚がはっきりあったという津田健次郎さん。

ご両親に「映画製作の道に進みたい」とこの頃から宣言していたそうですから根っからのクリエイターですね。

また中学時代、ソフトテニス部に所属していたという情報もありますが、後に『テニスの王子様』でアメリカ代表になるとは、夢にも思わなかったでしょうね。

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まとめ:津田健次郎の学歴

  • 津田健次郎さんは大阪明星中学校を卒業しています。
  • 津田健次郎さんは大阪明星高等学校を卒業しています。
  • 津田健次郎さんは明治大学を卒業しています。

学生時代に、周りの友人と価値観が合わない孤独感はつらいものです。

津田健次郎さんはそんな価値観の違いをポジティブに受け止め、古い映画にのめり込んだことで未来の自分を育てていたのかもしれませんね。

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