山崎育三郎の大学・高校・中学の学歴情報!アメリカにも留学していた

学歴

この記事は山崎育三郎さんの学歴情報(中学・高校・大学)と学生時代のエピソードを紹介しています。

音楽に目覚めた中学生時代から、わき目もふらず夢に向かっていった山崎育三郎さんの学生時代。

才能にあふれ、何の苦労もないプリンスにも見える現在ですが、その道の途中には苦しい時期もあったようです。

何があったのか、さっそく見ていきましょう。

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山崎育三郎の大学

山崎育三郎さんは2005年4月に東京音楽大学に入学。翌年9月に中退しています。

学校名 東京音楽大学
学部・学科 声楽演奏家コース
偏差値 43
所在地
〒153-0051
東京都目黒区上目黒1丁目9−1

2005年、東京音楽大学に進学した山崎育三郎さん。

東京藝術大学に迫る高い実技レベルで、特に演奏家コースは非常に高く評価されています。

山崎育三郎さんは声楽演奏家コースですから、当時からハイレベルな技術を持っていた事がわかります。

偏差値が低いのは、普通学科試験が音楽専門コースに比べて難易度が高くないからだと思われます。

NHK朝ドラ「エール」(2020)で共演した小南満佑子さん、同じ大学・同じ声楽科演奏家コースの後輩でした。

声変わりから4、5年が過ぎて、再びミュージカルに挑戦したいと思っていた頃、『レ・ミゼラブル』のオーディションの話を耳にします。

幼い頃から『レミゼオタク』だったという山崎育三郎さん。

大学1年のときには、仲間を集めて自主公演をしています。
コスチューム・セット・小道具まですべてイチから手作りで、製作費はもちろん自腹です。
ひとり当たり3万~5万ほどかかったそう。
それもこれもとにかく自分がマリウス(レ・ミゼラブルの登場人物)を演じたかったから。

そんな熱意がついに花開く時が来ました。
仲間との自主公演本番の直前、山崎育三郎さんは帝国劇場のオーディションに合格。
夢だったマリウス役をついに射止めたのです。

『レ・ミゼラブル』は僕の子どもの頃からの夢であり、大人になってのデビュー作。21歳でマリウス役で出演したことは今思い返しても大きな出来事で、そこがすべての始まりですね。オーディションでマリウス役に選ばれなかったら、違う人生だったと思います。

引用:https://www.oricon.co.jp/special/55181/2/

ロンドンからオーディションのため来日した古参演出家ジョン・ケアードさんの前で、19歳の山崎育三郎さんは最終審査(5次審査)を受けました。
彼の歌に並々ならぬ興味を示した演出家は「少し時間をあげるから別の譜面も歌ってくれ」とひと言。
山崎育三郎さん、即答したそうです。

「譜面なんて要りません。今すぐ歌えます」と言って歌ったんです。「じゃあ次はこの曲」「次はこの曲」と続けて5曲ぐらい歌ったことが、マリウス役に選んでもらったことにつながったと思いますね。引用:https://www.oricon.co.jp/special/55181/2/

日本中さがしても自分を超える『レミゼ』好きはいない、と断言する山崎育三郎さん。

(上演時間の)3時間、一人で全曲、譜面を見ないで歌えますからね。歌いたいし、好きだし、やりたかった。それがジョンに伝わったんだと思います。

引用:https://www.oricon.co.jp/special/55181/2/

まさに彼の人生そのものがミュージカル!

このオーディションに合格したのを機に、山崎育三郎さんは大学を中退。
現在に続くエンターテイナーへの道を歩み始めたのでした。

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山崎育三郎の高校

山崎育三郎さんは2001年4月に東邦音楽大学付属東邦高等学校に入学。途中、語学留学のためアメリカへ渡りブランクがあったため、2005年3月に同校を卒業しています。

学校名 東邦音楽大学付属東邦高等学校
学科・コース 声楽科
偏差値 46
所在地
〒112-0012
東京都文京区大塚4丁目46−9

私立東邦音楽大学附属東邦高等学校は、音楽に特化した専門校です。

ちなみに入学試験の普通科目は国語の作文のみで、そのため偏差値自体はそれほど高くありませんが、音楽実技試験のレベルは非常に高く、入試はかなり狭き門といわれています。 

そんな音楽の名門校に、山崎育三郎さんはたった半年間の特訓でピアノ・イタリア歌曲・ソルフェージュと呼ばれる譜面を読む技術を習得し、合格しているのです。

音楽の才能もさることながら、その集中力と、ミュージカルに向かう真剣さがどれほどのものだったかわかるような気がします。

女子生徒の数がかなり多くて、山崎育三郎さんが通っていたころも男子はクラスに数えるほどだったとか。

山崎育三郎さんは声楽科に所属していました。

折しも、ミュージカル界には井上芳雄さんが『エリザベート』のルドルフ役でデビュー。

二枚目と言えば年配の俳優さんが多かった当時のミュージカル界で、若くてスタイルのいい現代的なプリンスの登場でした。

かっこいいなと思いながらも、“くそ~、絶対負けないぞ、いつかは僕もあのステージに立つぞ”とひそかに思いました(笑)。彼が目標になりましたね

引用:https://allabout.co.jp/gm/gc/448107/4/

高校2年生になると、兄ふたりが留学していたこともあり、山崎育三郎さんもアメリカ・ミズーリ州のノースカンティー・ハイスクールへ語学留学します。

「1年日本人と話さなければ必ず英語は話せるようになる!」

兄たちに言われてなるほど、と渡米した山崎育三郎さんでしたが、空港から車で4時間もはなれたアジア人のひとりもいないその町では、異邦人もいいところ。

初日から学校で突き飛ばされ、英語オンチをバカにされ、さんざんいじめられたそうです。
ものめずらしさも手伝って、価値観の狭い田舎ほど、異分子への風当たりが強かったのでしょう。

彼の後にベトナム人の少年も留学してきたのですが、1カ月もしないうちにいじめに耐え切れず帰国してしまったそうです。

「いじめられた記憶だけで留学が終わってしまうのか。。。」
悲しい気持ちでそう考えていた山崎育三郎さんでしたが、

生徒会がひらいたダンスパーティーで、思い切って人の輪の中心に飛び込み、子役時代におぼえたダンスを無我夢中で踊ったのです。

僕は友達が一人もいなくて、はじめは隅の方で一人で座っていたんだけど、みんなをじっと見ながら“もし今ここで踊りに行ったら、俺の人生、変わるかもしれない。もういじめられないかもしれない”と思った 引用:https://allabout.co.jp/gm/gc/448107/4/

翌日から、みんなの彼を見る目ががらりと変わったのだとか。

突き飛ばしてきた少年も、「おまえサイコーだな」なんて声をかけてきたそう。
まるで青春映画みたいですね。

引用:https://natalie.mu/stage/column/523674

 

英語を話せないことが問題なのではなく、積極的に自分をアピールしていかないと生きていけない国にいるんだ、と気がついた山崎育三郎さん。

日本で学んでいるオペラから距離をとり、現地だからこそ触れられるジャンルの音楽として、合唱部に入りゴスペルやアメリカンポップスを学びました。

そんな実りある一年を終えて、2003年に帰国した山崎育三郎さんを待っていたのは、両親の離婚と祖父母の介護という、想像もしていなかった日々だったのです。

こちらは、“山崎育三郎の父親・母親・兄弟の家族情報”に詳しく書いていますので、よろしければそちらもご覧ください。

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山崎育三郎の中学校

山崎育三郎さんは1998年4月に港区立高松中学校に入学。2001年3月に同校を卒業しています。

学校名 港区立高松中学校
偏差値 なし
所在地
〒108-0074
東京都港区高輪1丁目16−25

1998年、通っていた歌の教室の先生の勧めで、中学1年の山崎育三郎さんは『アルゴミュージカル』のオーディションを受けます。

『アルゴミュージカル』は、歌手・作曲家と多彩な顔を持つ小椋佳さんが主宰した商業ミュージカルで、出演者はほぼ100%小学生から高校生までの子供たち。

厳しい審査をくぐり抜けた少年少女の中には、すでに芸能活動をはじめている子もいましたが、山崎育三郎さんも子役としてNHKのドラマ『六番目の小夜子』に出演経験がありました。

ご本人いわく「ダメもとで受けた」というオーディションに3000人の応募者の中から見事勝ち残り、レッスンが始まります。

レッスン中には、演出家から灰皿を投げつけられる勢いで「下手くそ!帰れ!」と罵倒された日もありましたが、野球で鍛えた運動神経と天性のカンの良さで、初めてのダンスも専門家を納得させられるレベルになったとか。

参照:https://allabout.co.jp/gm/gc/448107/3/

オーディションから半年後、アルゴミュージカル『フラワー』の舞台に、主人公として堂々と歌う12歳の山崎育三郎さんの姿がありました。

公演中は毎日が楽しくて楽しくて「自分らしく呼吸できる場所を見つけた」思いだったそう。

引用:https://natalie.mu/stage/column/523674

地方公演もあったのですが、ソロ曲を歌いながらもうすぐ公演が終わってしまう寂しさに泣いてしまい、歌えなくなってしまったこともあるのだとか。

観客からは励ましの声がとび、舞台も大いに盛り上がったそうです。

僕たちはお客様に何か物をプレゼントしたり、売ったりしたわけでもない。でもあの劇場空間を共有したことで、お客様を笑顔にすることができたんです。それを経験して、子供ながらに「こんなに美しい場所はない。ここにいたい」と思いました。

引用:https://natalie.mu/stage/column/523674

ミュージカル俳優になることを決意した山崎育三郎さんでしたが、中学2年生になるころから変声期に差しかかり、美しいボーイソプラノが出なくなってしまいます。

中学卒業までの1年間は、ミュージカルの審査に落ち続けました。
変声期の壁です。

それまで出ていた高い音も低い音も出なくなって、気持ち悪い声になってしまったんですよ。子供の歌も女性の歌も、男性の歌も歌えない。引用:https://allabout.co.jp/gm/gc/448107/4/

これをきっかけに山崎育三郎さんはクラシック声楽に新しい活路を見出そうと、東邦音楽大学付属東邦高等学校への進学を決意。

理解ある師との出会いもあり、遅まきながら3年の夏から初めてのピアノ・ソルフェージュ(楽譜読み)・イタリア歌曲に必死に取り組み、入試に合格しました。

しかし、たった半年で音楽専門の高校に合格できるほどの技術を身に着けるなんて、やはり彼にはミュージカルの神様がついているのかもしれませんね。

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まとめ:山崎育三郎の学歴

  • 山崎育三郎さんは港区立高松中学校を卒業しています。
  • 山崎育三郎さんは東邦音楽大学付属東邦高等学校を卒業しています。
  • 山崎育三郎さんは東京音楽大学を中退しています。

学生時代から素晴らしい才能に恵まれて、その才能をいかんなく発揮してきた山崎育三郎さん。

ときには、悔しい思いをしたこともありますが、それでもやはり音楽の道に進んでいけたのは、やはり才能があったんでしょう。

それと同時に、学生時代には祖父母の面倒も見るというヤングケアラーも経験していたというのには驚きでした。

 

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